映像画日記

アニメーターの絵と映画と読書の記録

ランボー ラスト・ブラッド  監督: エイドリアン・グランバーグ

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ー復讐は虚しい、と人は言う。だが「そんなことはないぞ!」と力強く主張する映画は数多く、『ランボーラスト・ブラッド』もまさにそういう映画である。多くの映画が復讐を称揚できるのには、映画というメディアの持つ時間的な性質が関係している。ほとんどの商業映画の上映時間は2時間前後であり、その中において無限の時間を描くことが可能であるとしても、おおむね2時間後に上映が終わると観客はほっと一息ついて、「物語が終わった」ことに満足して(あるいは不満を募らせながら)劇場をあとにする。「終わり」があることは映画の美点であり、「終わり」があるがゆえに我々は血なまぐさい復讐が成し遂げられたことにカタルシスを覚えつつ、そこで一旦「おしまい」にして日常生活に戻ることができる。ところが実人生には「おしまい」というものがないので(自分自身が死ぬ瞬間は自覚できないので「おしまい」は原理的に存在しない)、復讐で得られる瞬間的なカタルシスはあっという間に色あせ、その隙間に罪悪感や悔悟の念、自分のやったことは本当に正しかったのだろうかという懐疑心などがむくむくと頭をもたげてくる。一方、映画というメディアは時間そのものを操ることが可能であるため、「瞬間的なカタルシス」を延々と引き伸ばすことができる。言葉の本来の意味で、きわめてポルノ的にだ。ポルノは何もかもを拡大し、引き伸ばし、快楽の幻影をどこまでも延長する。誤解のないように書いておくが、映画がポルノ的な快楽装置として機能するということは、決して映画の価値を損なうものではない。そもそもが窃視症的なメディアであるということを差し引いても、映画表現はポルノ的な快楽と不可分なのである。(高橋ヨシキ

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